国連の性格と特徴 4

各国の理解を得られないというのは、国連憲章の改正が簡単ではないということに係わっています。


憲章の規定については、制定以来既に約4十7年を経て、改正を真剣に考える必要があるものがあります。


しかし、いったん改正に手をつけた場合、全面改正になりかねません。


そのことが改正問題に対する取り組みそのものを難しいものにしているのです。


そのような状況を考えた場合、日本が過去の憲章の日本に対する扱いが差別的だという、ただそれだけの理由で旧敵国条項を削除することを求めるというのでは・・・


日本は本当に問題状況を分かっているのかという疑問を招くだけのことです。


各国の物笑いになるというのは、既に申し上げたように、旧敵国条項の意味を日本政府(というより自民党)が完全に取り違えているからです。


この条項は、国連としては過去のことには係わらない、そういう問題については当事者間で解決してほしいということを明らかにしたものです。


国連の性格と特徴 3

憲章第107条は・・・


「この憲章のいかなる規定も、第二次世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない」


・・・という規定(いわゆる旧敵国条項)を設けました。


この規定は、国連が第二次大戦の敗戦国をどのように扱うかという問題には係わらないという姿勢を明らかにしたものです。


この点に関連することを一言付け加えておきます。


近年になって日本政府は、この旧敵国条項を削除するよう、機会あるごとに関係大国に対して申し入れているのです。


その狙いは、日本が国際社会の有力な一員として復帰した今日、このような条項があることは、日本を相変わらず差別して扱おうとするものであり、受け入れがたいということにあるようです。


・・・しかし、このようなことにこだわる日本政府の行動は、各国の理解を得られるものではないだけではなく・・・


この条項の意味を取り違えたものとして国際的に物笑いになるだけであり、さらにいえば、何を日本は考えているのかという不信と警戒を招く恐れすらあります。

国連の性格と特徴 2

連盟の欠陥として明らかになっていた、国際社会の平和と安全を守る上で不足していた制度・仕組みを強化。


連盟時代に始まった進歩的要素ともいうべき非政治分野の諸活動をさらに強めることが意図されました。


・・・ただし次のような考慮から、国連を創設した当時は、国連は連盟の後継者であり、その発展であるという印象を与えないようにする配慮が働いていました。


例えば連盟に対して加えられた批判の一つは、連盟が第一次世界大戦の敗者(とくにドイツ)に対して勝者が強制した不公正な平和を守るための制度であるという点にありました。


そのため国連は、第二次世界大戦の後始末のための国際機構という性格をなるべく排除し、来るべき平和の時代の国際社会を支配すべき原則とそのための制度・仕組みを用意することに重点を置きました。


したがって、連盟規約がドイツなどの敗戦国との平和条約の一部として作成されたのに対し、国連憲章は、日本などが結んだ講和条約とは全く別物として位置づけられ、作られました。


国連の性格と特徴

ソ連は、その劣勢を少しでも補うために投票権を広げることにこだわり、一国一票の原則に対する例外を求めました。


結果としては、ウクライナ、白ロシアにソ連と並ぶ代表権が与えられたのです。


こうして、1945年4月にサンフランシスコで国連を創立するための反枢軸国の全体会議を開催することが合意されました。


サンフランシスコ会議には50力国の代表が出席し、2カ月の討議を経て、国連憲章が採択され、6月26日にその署名が行われました。


憲章は、10月24日に発効、国連総会第1回会議は1946年1月10日にロンドンで開催されることになったのです。


さて、国連の性格という点に関してまず指摘したいのは、国連は国際機構の歴史的発展の産物であったということです。

初期条件の明白な相違 2

理由は、必ずしも明らかではないのですが・・・


工場の疎開が進んでいた点をあげる見方があります。


いずれにしても、西ドイツは日本のように「完全な廃虚の中から出発した」わけではなく、きっかけさえ与えられれば直ちに生産活動を再開できる基盤を備えていたということになります。


同じ敗戦国といいながら、日本・西ドイツには、戦後の初期条件にすでに大きな差があったのです。


この差はのちに重要な意味をもってきます。


同じ復興を目指すにしても、ゼロから出発するのと、ある程度の余力をもって出発するのとでは、ゼロから出発する日本の方に、多少の無理が生じるのは当然だからです。


・・・それがどのような無理だったのか、そしてそもそもその無理から、「日本だけが孤立する」原因のいくつかが生まれているのではないでしょうか?


このような視点で、復興期の日本と西ドイツの歩んだ道を比較・検証してみることにしましょう。

初期条件の明白な相違

日本と西ドイツも、このような飢餓状況を占領軍の食糧放出などによって辛うじてしのいでいたのです。


しかし、住宅や食糧の不足は、あらゆる戦争の敗戦国に共通する宿命のようなものであり、問題は、その後の復興を左右する工業生産力が破壊を免れてどの程度残ったかにあります。


実はこの点で、日本と西ドイツには決定的な差が生じていたのです。


昭和24年4月に発表された「太平洋戦争によるわが国の被害総合報告書」などによると、終戦直後の日本の鉱工業生産は、戦前のわずか10分の1にまで落ち込み、その後の数年間は、3分の1前後の水準で推移しています。


日本の場合、とくに石油精製や製鉄などの生産設備の破壊度が高かったのです。


一方、西ドイツはどうでしょう。


1945年10月に発表された「アメリカ戦略空軍ドイツ爆撃報告書」は、爆撃による西ドイツの工業生産設備の破壊率を20パーセント以下と推定しています。


別の調査では、西ドイツの工作機械の損傷率を5パーセント程度と推定したものもあります。


壊滅的な打撃を受けた日本に対し、西ドイツの工業生産設備の受けた損害はなぜこのように小さかったのでしょうか。

日本とドイツの戦後復興

ドイツが連合国軍に無条件降伏したのは、1945年5月8日です。


この戦争で最も被害が大きかったのは、住宅と農業生産でした。


敗戦で領土の24パーセントを奪われましたが、残された領土のうち、農業生産力の高かった東部ドイツを、その後の東西分割によって失いました。


さらにその東部ドイツから1000万人をこす引揚者が難民として流れ込み、西ドイツの住宅・食糧事情の悪化に拍車をかけたのです。


こうした状況は、ドイツに遅れること3か月で降伏した日本も全く同じでした。


広島・長崎の原爆被害を含めて全国で119都市が爆撃による戦災にあい、900万人が住宅を失いました。


かつての領土の44パーセントを奪われ、引揚者は600万人にのぼりました。


しかも昭和20年は大変な凶作の年で、米の収穫量は平年のやっと6割にすぎなかったのです。


当時、1人1日当たりの平均カロリーは1200キロカロリー程度で、戦前の半分くらいといわれました。


マーシャル・プランとは 2

日本の戦後の経覆興の最大の推進力となったのは、昭和25年に始まった朝簸争であるといわれています。


この撃による軍用品などの特需によってもたらされた外貨は総額16億ドルにのぼり、停滞を続けていた工業生産はここで一気に戦前の水準を突破するのです。


この16億ドルという数字は、西ドイツがマーシャル・プランによって得たドルの額と奇しくも一致しています。


それは、西ドイツと日本の戦後復興が、アメリカとソ連の対立という戦後の国際政治情勢のただ中で始まったという事実をあらためて思い知らせてくれるものです。


もっともこれから検証しようとするのは、そのようなことではありません。


第二次世界大戦の敗戦国日本と西ドイツの戦後復興が、ともにアメリカの援助をきっかけとして進められ、それがアメリカの世界戦略に基づくものだった、という視点だけでは、


「なぜ日本だけがたたかれるのか」


・・・という現実の問いに対する答えが出てこないからです。


"敗戦"から"奇跡の復興"という共通の体験を持つ日本と西ドイツですが、それにもかかわらず、両票復興へ向けて歩んだ道には、実は、最初から隔たりがあったのではないか・・・


そこにはすでに「日本だけが孤立する」原因の萌芽が見られるのではないでしょうか。


戦後10年間の復興期の両国の歴史を比較・検証するに当たり、私たちはまず、昭和20年1945年の敗戦の時点に立ち戻ることから始めなければなりません。


マーシャル・プランとは

レーガン大統領のいう「マーシャル・プラン」とは、1948年から51年までの3年間に、アメリカから西ドイツに供与された16億ドルにのぼるドル援助のことです。


この巨額の経済援助が最大の呼び水となって、西ドイツの戦後復興がスタートしたことは、だれの目にも明らかなことです。


日本も事情は同じでした。


日本の場合、マーシャル・プランのようなまとまった額のドル援助を受けることはありませんでしたが、戦後復興のさまざまな局面がアメリカの主導と援助のもとに進められたことはいまさら繰り返すまでもないことです。


もっとも、西ドイツにしても日本にしても、アメリカの「援助」は、決して純粋に経済的意味だけをもつものではなく、ソ連を中心とした社会主義陣営への対抗という、アメリカの世界戦略的側面を無視することはできないでしょう。


マーシャル・プランは、東西冷戦がくすぶり始めた1947年3月の、トルーマン米大統領の有名な反共宣言演説


・・・「世界の自由国家は全体主義の直接間接の侵略によって脅かされている。


これがアメリカの安全を妨げている。


アメリカはこの侵略と全世界的に戦わなければならない」


・・・この直後に、これを受ける形で発表されたものでしたし、ほぼ同時に、アメリカが日本への戦争賠償の取り立てを放棄したこともよく知られています。


21世紀の郷土の森づくりを町にも村にも

生きた構築材料・植生を使っての積極的な緑の環境創造は、生態学的な掟にしたがわない限り、決して成功しないということです。


その土地固有の緑の自然が、現在どのように人間によって破壊されたり変えられていようとも・・・


まず現代の科学で可能な素肌・素顔、潜在自然植生を正しく把握するのです。


そして、それぞれの場所の潜在自然植生を生きた鏡として、21世紀に生き残る、時間と共に確実に育つ花 種、立体的な緑の豊かな環境創造を積極的に行なうべきです。


日本列島ほぼ全域にわたって、そこで生まれ育ち、働き、生活している住民がいます。


・・・したがって、どこかに一つ何万ヘクタールという自然環境保全地域を残すだけでは不十分です。


すべての町に、村に、少なくともそこの住民のふるさとの景観である緑の環境を、一つひとつそれぞれの場所・地力に応じて、明日のために創ってゆくべきでしょう。